別冊
ぼんのう
〜 第六回 〜
「意味」の伝達ではない言葉の役割
自分が始めるには最適な時期だった
誰かが自分の曲を評価してくれる時、大抵言っていただけるのが「歌詞が良い」ということだったりする。
それなりにどこかしら褒めていただけるというのは当然嬉しいことではあるのだけれど、20代から30代の後半あたりくらいまでは、若干の抵抗感があったのもまた正直なところである。
なんというか、自分の中では曲のために記した言葉、つまり歌詞というものはメロディーやリズムと絡まり合って、あるいは互いに溶け合ってひとつの「歌」というものに仕上げたいという気持ちがあって、そこを歌詞だけ分離させて評価されるというところがちょっと気になっていたのだ。
要するに天邪鬼なのかもしれないが、大概の人が言う「歌詞が良い」というのは言葉の持っている意味を解釈してのことであり、自分が腐心しているのは意外と「メロディにハマるか」とか「リズムを狂わせないか」と言ったところにあって、「意味を伝える」とか「言葉だけで描かれている物語や場面を筋の通るものにする」といった部分の優先順位は低かったりするのである。
こういうのはおそらく好みの問題だと思うのだが、自分が子供の頃から、合唱大会のようなもので歌わされる歌の歌詞が、そこに付けられているメロディに綺麗に馴染んでいない、言葉と音が分離されたものが気持ち悪かったり(西洋の歌に、むりやり直訳したような日本語を当てているようなやつ)、70年代のフォークソングなども好きではあったのだが、まるで作文のようにして自分の主義主張やら、そこらへんの風景などを書いているものは聴いていて面倒臭かったのもある。
後になって気がつくのだが、中学生くらいまで好んで聴いていた吉田拓郎や井上陽水などは、言葉の持つ響きそのものや、リズム感にかなり意識的に取り組んでいたんだろうという気がするし、さだまさしやオフコース(特に小田和正)はメロディと融和させた言葉でなければ美しくないという意識が高いのだと思う。
こうした音楽に親しみながら、ちょっと時間をズラしてビートルズをきっかけに洋楽を熱心に聴くようになった訳だが、英語で歌われているので言葉の意味を排除したところでの「気持ち良さ」とか、何がしかその意味のわからない言葉の響きに自分の情動を刺激されるような作用があることを知らず知らずに覚えさせられていたんだろう。
そうした下ごしらえが整ったところで、サザンオールスターズ、そして佐野元春が登場するのだから、自分が曲作りに関心を持ち始めて試行錯誤するにはちょうど良い時期だったなという気がする。
曲作りを始める割と初期の段階から「音楽として機能する言葉」というものを自分なりに意識しながらやってこれたおかげで、歌を「心情や主張を意味として伝える」ものではなく「言葉にならないものを表現する」ものと捉えてこれたのだから。
勝手に「日本語ロックに課せられた命題」を背負う(笑)
曲作りを始める少し前、自分が熱心に音楽に触れ始めた頃、よくラジオのフォークソング特集などで、吉田拓郎の「字余り」と言われた歌詞の当て方がいかに革新的だったのかが語られていた。
また、ロックに於いても、自分が興味を持つ頃にようやく日本語で歌っていいというのが定着した時期で、その少し前には「ロックは英語で歌わないと、日本語ではノリが悪い」というのが定番だったのだ。
一応”はっぴいえんど”が日本語でロックを演奏した最初のグループと言われており、彼らが登場した時には、ミュージシャン同士で賛否にわかれてのちょっとした論争もあったようだ。
こういう事を、僕はサザンオールスターズが登場して騒がれた時に知った。
サザンというか桑田圭祐氏の曲は、吉田拓郎以上に革新的で、それが少し前にあった「ロックは日本語に乗るのか問題」を紹介されながら語られていたのだ。
桑田氏の何が拓郎より革新的だったかと言うと、細かなことは省略するが、拓郎は洋楽の歌い方で伝わるリズムやビートを日本語で踏襲しようとしており、桑田圭祐はそれに加えてサウンドとしての言葉がロックにハマるようにしているのである。
そこで歌詞だけ見ても何についての何を言っているのかわからないという批判が出てくることになる。要するに言葉だけを切り離して考えるとそうなるのだ。
簡単に言うと、油断して聴いているとそれが日本語であるかどうかも判断できないような言葉を選んで歌詞を紡いでいる。
今ではさほど早口とも感じないし、歌詞の展開もサザン以降は大きく変わったので当たり前のように聴けるのだが、当時の歌謡曲に慣れている人にからは「こんなの歌じゃない」と批判される対象になっていた。
でも、ビートルズをはじめとして洋楽も聴きあさるようになった耳にはなんとも心地よく、気分を刺激してくれる音楽である。
その数年後に登場した佐野元春は、その言葉のチョイスの中で、特に10代~20代前半の若者が自分自身の生活や心情に重ねることができるようなイメージを提示するキーワードをちりばめていた。
曲作りを見よう見まねで始めた前後にこういうのを聴いて育ったがために、自分の中で「言葉が音楽として響く日本語の歌詞を作らなくてはならない」という刷り込みができた(笑)。
今ではもうすっかり古いテーマである。それが当たり前でもあり、当たり前すぎて意識されないがために、歌詞とサウンドが分離してしまっている曲や、文章にして発表すればいいじゃんと思うような歌まで聴こえてくる時代になった。
しかし、この時代に育ったので、自分の中ではいまだに勝手に背負った命題なのである。
最初はメロディに、そしてサウンドに
サザンのデビューと、自分が曲を作り始めたのは同時期くらいだったと思う。なので、聴いて楽しんではいても、「カッコイイ曲にする秘訣」みたいなものはまだよくわかっていなかった。
無意識ながらも「響き」という意味でもっとも初期に参考にしたのは、おそらく吉田拓郎とさだまさしだ。ちょっと無骨で激しめな曲にしたければ拓郎のリズムの解釈を、メロディを綺麗に歌うためにはさだまさしの美意識をという具合。
もちろん、都度興味を持ったいわゆる”ニューミュージック”の人たちの言葉遣いや展開方法などは真似てみるのだけれど。
自分が本格的にサウンドとしての言葉を意識するようになったのは、大学に入ってバンドを結成する少し前だったと思うのだけれど、その前に、高校生の頃にちょっとだけ試したりしていた。
いろんな曲作りを試している中で、ロック調の曲を作ってみてもどうも洋楽のようにならないという部分が気になった時だ。テンポの早い曲で歌の疾走感を出したいのと、その為には拓郎の「字余り」だけではスマートさが足りなかったというのもあったんだと思う。
そこで参考にしたというか「コレ、格好いいじゃん」と思ったのが佐野元春だった。まだそんなにのめり込んではいなかったけれど、ラジオで聴こえてくる「アンジェリーナ」とか「彼女はデリケート」みたいなものを目指したのだ。
目指したはいいけど、どうすればいいのかまるでわからない。
洋楽のロックンロールを聴きまくり、佐野元春やサザンを聴きまくり、発見したのは先ほども書いた「イメージの羅列」である。特に歌詞に整合性がなくても、筋道がなくても、特定のテーマというか心の動きを掴んでおいて、その気分から湧いてくるイメージや思いつきを書き連ねて行って、サビや展開の中の背景でもともと発想のきっかけとなった、特定の気分を誘発させた出来事や思いつきのテーマに結びつけていく、あるいは強引に持っていく。
まぁ、当時そこまで分析理解した上でやっていたワケではないが、今振り返るとそう言えるだろう。そしてこのやり方が、後にビートニクと呼ばれた50~60年代に注目された詩人たちへの興味に繋がっていく「なんだ、この人たち似たような事やってたんじゃん」という解釈で。
そして、この疾走感をだすための言葉づかいもよくわかっていなかったので、解決策として「ぐるぐる」とか「フラフラ」などという同じ音を繰り返す短い言葉を採用したりしていた。
ここに当時流行っていた、歌詞にポンと英語を絡ませるとか、英語に聞こえるような日本語とか歌い回しを取り入れる事で段々と自分なりの「サウンドとしての言葉遣い」を身につけていくようになる。
ダジャレを使えばいい
もうひとつ、大事なポイントとして「韻を踏む」というのがある。
西洋では朗読詩からの伝統かもしれないが、多くのポップソングで「韻を踏む」という技術が使われる。自分がコレを知ったのは、ビートルズの『I Saw Her Standing There』の”She was just seventeen, You know what I mean”という歌詞が「teenとmeanで韻を踏んでいる」と紹介されているのを読んだのが最初だった。
各センテンスの語尾を同じ音で揃える事で、心地よくなる、そこにノリが生じるし響きが整う。
子供の頃からダジャレは好きであった。芸事や愉快なことが好きな祖父の前で彼が面白がるようなダジャレを言うと小遣いをくれたりしていた。一番受けて今でも記憶にあるのは、どこかの店に行こうとして、営業時間が終了したのに気がついた時に「しまった、店が閉まってしまった」と言ったやつである。
このように、韻を踏むと自然に言葉が転がる。
最初に歌でコレをやろうとしたのは、大学に入ってからで、それまでいろんなタイプの曲作りを試していたのが「やっぱりロックやりたいな」というふうに一応の方向性を決めてからだ。
もともとダジャレが好きだったので、韻を踏むというのは考えていて楽しい作業である。未だに言葉を探す時に韻を踏もうとする。中には、思いっきり韻を踏む事を「隠しテーマ」に作ることもあるし、逆に「これは韻を踏まないでおこう」という縛りで書くことまである。
細かな事を紹介するとキリがなくなるので省略するが、この韻を踏むのにもいろんなパターンやバリエーションを試してきた。
そして「歌い回し」からグルーヴを作る
もう一つ、サウンドとしての歌詞の役割として大事な機能が「グルーヴを出す」というところだと思っている。これをどうやって日本語でだすのか?
言いたい事をどのような言葉を使って言うのかという「言い回し」と、それをどう「歌いまわすか?」で、曲の印象は大きく変わる。
逆に言えば、グルーヴの解釈がなく歌われると、曲が当初持っていた「気分」を壊すこともある。ただ文字で書かれた言葉を伝えるのであれば、どんな歌い回しだろうと構わないのだろうが、たまにクラシック音楽の教育が染み付いた方がロックを歌ったりすると、技術的な歌唱は見事なものだし、メロディーも正確だし、滑舌もしっかりしてるのだが、途端に曲がつまらなくなるということがある。少なくとも、僕はそう感じる。
超一流となれば違うのだろうが(パバロッティが歌ったU2は素晴らしかった)、音大で声楽を学んでいる学生がその歌い方で「Twist and Shout」を歌うのを聴かされても、シャウトもなければ、こっちの気分もツイストしない。
自分が熱心に聴いていたものだと、桑田佳祐の歌い方が顕著なのだが、歌にビート感を持たせているし、その機能を果たせるように言葉を使っている。同じような系統の歌い回しでもっと先へ行ったのが岡村靖幸だろうし、さらに系統が分かれたところでミスチルの櫻井氏がまたちょっと異なる解釈をしていて、それに影響を受けた系譜もあるようだ。
これがまた、お互いに影響を受けあっているのが興味深い。
さて、最初のバンドの頃は、僕はまだそこまで歌い回しに意識が向いていなかった。所々で「こういう風にしたい(一音だけシャくるなど)」はあったが、全体的に言えばまだ曲作りの中でそこまで考えが及んでなかった。
そのバンドが解散して、次のバンドを始めるまでに曲作りなどをしていた数年間で、若干横ノリの曲や跳ねるリズムの曲が多くなってきて、その曲の持っているビートにハマる言葉や歌い回しを探している内に、次第に感覚的に身についてきた。
そして、そのバンドも解散して、基本的に弾き語りで演奏する機会が多くなってきたワケだが、その時に一人でやっていて、一番欲しかったのがグルーヴだったのだ。
特に、それまでやってたバンドのドラムとベースがその部分には非常に長けていたというか、自分の感覚にあっていたので、それがなくなったのが厳しかった。
無理やりノリを出そうと頑張っても、むやみに怒鳴り散らかして勢いを出そうとしているだけだし、ギターのカッティングだけでは歌っていて気持ちよくないのである。
そこで、歌っていて気持ちよく転がれる、揺れることができる方法として、「そういう言葉でそのように歌い回せるように」という曲の作り方に自然となって行った。
以前からもそうではあったのだが、この頃から全てと言ってもいいくらい、曲は歌いながら手直ししつつ、メロディも歌詞も一緒に完成させていくという方法が定着する。歌い回しも、原型は曲が出来上がると同時にできている。身体を使いながらでないと、頭の中で考えるだけではグルーヴの部分が求める通りになってくれないのだ。
今、歌詞を褒められると素直に嬉しい
このように、歌詞の意味ではない部分での関心ごとがあまりにも多かったし、ある意味ではそこで言葉を追求してきたと言えなくもないのだが、ただ「歌詞がいい」と言われても手放しで喜べなかった。「いや、そこのリズムにどう乗せたかがポイントなんだけどな」とか思ってしまうし、「ここの言葉遣いだと意味が通じない」と言われれば「でも、歌って聴かせれば気持ちの空気はこっちの方がハマるんだよ」とか反論したくなった。
もちろん、その上で「聴いてくれる人の気持ちの足しになったり、喜んでくれるものを」という気持ちがありながら歌詞を書いるのだが、ちょっとその着目点のズレを気にしすぎていたんだろう。
40代に突入する少し前まで、こうした試みをやってきて、その後はこれが自分に定着したので、相変わらず応用してどういう事ができるかも試しているが、使い方の経験値が上がった分だけより意味としての伝え方も多少はちゃんとできるようになってきたかなと思う。
そして、やってきた結果として、文法的におかしいとか意味としての整合性がなくても、伝えたいものは伝わるようになったという、多少の自負もある。正直、こんだけ文章で色々説明するのが好きなんだから、意味だけを伝えたいのならわざわざ曲やサウンドの制約を受けながら折り合いをつけるなんてことはせずに、言葉だけで説明する方が話は早いのだ。
意味や説明ではないものを伝えたいから曲を書いて自分で歌っているのである。
それが、一応はやれてるかなと思えるようになってからは、「歌詞がいいね」と言われると素直に喜べるようになった。
おそらく、歌詞だけを捉えても、そこに意味とか文字面だけの内容以上のものが伝わってるのだろうと思えるようになったし、あるいはうまく曲にハマった効果として歌詞が良いと思わせることができたんだろうと解釈している。
そして、これが一番大きな理由だと思うけれど、歳を取ると自分に対する許容範囲が広くなるのである(笑)。昔は自分自身にこだわり過ぎて、そこから外れると「そうじゃないです」と言いたかったのが、今は「人がそう受け止めるんなら、自分は歌詞がいいんだろうな」という受け止め方をするようになったのです。
なんか、もうどう受け止められても自分のやることに変わりはないので、好きでやってる事を人様に褒めていただけるだけで、ありがたいです。
なので、余計な気遣いなしに、思いのまま褒めてください(笑)