別冊
ぼんのう
〜 第十回 〜
誰かから生まれる歌
人のふり見て我が歌作る
以前から繰り返し書いてきたように、曲を書き始めた頃に題材としていたのはほとんどが自分の考えたことや、その時好きだった女の子に向けてのものであった。
しかし「曲を作る」ということへの関心が深くなるにつれて、そしてもっと様々なテイストの曲を書きたいと思うようになって、さらに言えば「たくさん曲を書く」という欲求を満たすために、様々なことに関心を向けるようになった。そうしないとネタがないのだ。
だから若い頃は、漫画や書籍、映画から、道を歩いて見聞きしたものまで、頭のどこかで「コレ、歌のネタとして使えないかな?」という考えが働いており、それは今や「習慣」というよりも無意識的にそうした作業を行なっているような気がする。
これは努力の賜物とか、ストイックさというのではなく、むしろ「症状」に近いものなんじゃないかと自分では思う。
その「ネタにする」ことのひとつとして重要なものに「誰かをモデルにして描く」というものがある。要するに、始めた頃に好きな女の子に向けて歌を書いていた事の延長線上にある行為なんだろうと思うが、友人知人から敬愛するアーティスト、何がしかの活動をしている中で出会って刺激を受けた方々などを題材にして、曲を書く機会が多くなっていった。
もちろん「ネタにする」といっても、何らかの形でこちらの心が震えるようなものがあった場合ということなのだが、その震えを持ちながら過ごしているうちにふと曲として現れることがある。
そういう出来事を経てから随分と時間が経過する場合もあるし、その刺激を受けた興奮状態のまま、帰り道で出来上がってしまう事もある。
これは他のきっかけで歌を書くときも同じなのだが、もちろん誰かをモデルに書いたとしても、最近はそのことだけにフォーカスするという書き方は少なくなった。他のことと同じように、その誰かの姿を見ながら、自分の中で同じような心の動きをする他の物事をリンクさせたり、混在させるという書き方なのだけれど。
そして、他の要素の曲同様に、様々な要素を混ぜ合わせた中で、その人に関する事(あるいは、その人と自分の関係性)がよりクローズアップされる場合ももちろんある。
若い頃はそれこそ、友人の体験談をそっくりそのまま曲としてまとめましたというようなものもあり、「辻に知られたら曲にされる」と言われたりしたこともあるのだが、ちょっと時が経つと、それを逆手に取るような書き方もするようになった。
”誰か” を描く時”何を”描いているのか?
先ほども書いたように、まだ10代から20代前半くらいの頃というのは、付き合っていた子や、友人らと一緒に体験したことや、彼らから見聞きした話をそのまま伝えるというものが多かった。
下手をすると、自分がその人物になりすました形で友人から聴いた話を曲にしたりもした。
確かに、その友人は気に入ってくれたり、自分がうまく表現できなかった自分の気持ちの中の事を言い当ててくれたと褒めてくれるようなこともあったが、要するにそうした「ご当人向け」という限定的な表現でしかなかったのだ。
それはそれなりに「この話を、曲としてどのように構成するか?」とか「モデルとなった人物の事を知らない人にも聞いてもらうには、どう書けばいいか?」などの試行錯誤はあったが、その内に「この体験やエピソードの何に自分が惹かれて歌いたいと思っているのか?」に気をつけるようになって、そうした傾向は影を潜めるようになってきたと思う。
というのは、人物に限らず、事実そのものを曲の形にまとめあげたとしても、その事実を見聞きし、体験した自分の心情というものはほとんど反映されないことに次第に気がついていったからだ。
ものすごく雑な例えをしてしまうと、ダンサーかなんかが踊っている姿に感銘を受けて、その姿を写真の心得のない自分がスマホのカメラで撮影したとしても、その写真を後でだれかに見せたところでその時の自分の「感銘」はどこにも写ってはいないのだ。もしかしたら、自分自身はその写真を見て「感銘」を蘇らせることはできるかもしれないが、その時の実際の場を体験していない第三者には伝わらない。
自分が若い頃に書いていた、誰かをモデルにした歌というのは、そうしたダンサーの写真のようなものだなという気がする。
その歌を歌っている自分はもしかしたら思い出せるかもしれないが、聴いている人たちに伝わるのは「ダンサーが踊ってました」っていうことだけだろうなと。
おそらく、自分が様々な曲の中で「何を描きたいのか?」ということに着目して作るようになり、それから次第に複数の事実や作話や思考や感情を混在させるような作り方になっていったのも、こうした「誰かの事を書く」という時に「何を書きたくてその人物を描くのか?」という取り組みがきっかけだったのではないかなと思う。
無論、その書きたいことが「その人のこと」そのものであったり、その人物と自分の体験談である場合もあるのだが、自分がフォーカスする点が「何を書きたいのか?」ということなんだと認識した上で書くほうが、第三者が聴いても何かしら伝わるものがあるという手応えを感じる。
ひとつ例を挙げるとすると、1992年に書いた”あの娘を自慢したいんだ”という曲は、モデルとなった女の子がいるにはいるのだが、その子に好感を持ってはいても特に恋愛感情は何もなかった。
ただ彼女を見て感じた、その素直さや一生懸命なところとかが素敵だなという気持ちを表すのに、「密かに想いを寄せている」と受け取られる形にして書いた方がより伝わるだろうなと思って書いた曲だった。
多分、意図的にこういう書き方をし始めたのはこの曲あたりからだろうと思う。
複数の「誰か」を一人の「誰か」にする
そうこうしながら色んな人物についてや、その人との関係の中で生じた何かを書いている内に、あとは他のテーマの曲と同じように、色々な他の物事と混ぜ合わせるようになっていくのだが、その中で「誰かの事と他の誰かの事を混ぜ合わせる」という作り方もするようになってくる。
つまりそれは、その多数の人物との事柄で、自分の中に共通の「気持ちの動き」のようなものがあった場合に、仮にそれに該当するのが3人くらいの人物がいて、それも男女バラバラだったとしても、曲の中では一人の女性(あるいは男性)として設定して「彼女は~」とか「君の~」とか歌ってしまうという事だ。
自分のその曲のテーマが「特定の人物」ではなく「その人物から何を感じてたか?」を書きたいのだから、こちらの方がより書きやすいし、伝わるものが描けるだろうと思っている。
ここでもう一つ例を挙げると”一緒に泣こうか”がソレに当たる。
きっかけは、知り合いで非常に悩んで落ち込んでたりした人がいて、なんというかその時に「落ち込んでても仕方ない」とか「悩んでないで元気だしなよ」とか励ましたり何かアドヴァイスしたりするよりも、できる限り、その気持ちを受け止める方が良いのではないかと思ったし、本人が望んでいるのも、ただ話を聞いたり、隣にいてくれることなんではないのかなと(照れ臭い言い方をすると「寄り添って」というのかな)いう気がしたことにある。
ついでに言えば、何か悩み事や愚痴を聞いた時に、何かと優しい言葉を口に出して慰めてる(もちろん悪気はなく、本当に優しい気持ちで心からの言葉とは思うのだが)人の、その「教科書通り」とも言える言葉が、特にSNS場などでは非常に安易に飛び交っている状況に違和感があるというのも背景にある。
そういう「私の親切心や思いやり」をアピールしなくても、ただ一緒にいればいいのではないのかなと。
そこが発端だったのだが、そんな気持ちや考えを持って過ごしている内に、ちょっと別の同じような話があったり、事情はわからないが公園のベンチでわりと本格的に嗚咽して泣いている高校生くらいの男の子を見かけたり、ニュース映像で見かけたテロで大事な人を失った方とか、まぁそういった数々の悲しい渦中にある方々に対して、皆さん自分の知り合いであれば、自分にできることは「あなたは大丈夫なんだよ」と思いながら(それは当事者にいうべきではないと踏まえつつ)隣にいることくらいだろうなと、そういうところから出てきた曲である。
だから、これは特定の誰かではないのだが、曲の中では「君」と歌っている。
これをもし、「自分の知り合いが~」とか「ベンチ座ってた男の子が~」とかってワンコーラスごととか一行ごととかでそれぞれを物語っていくと、ちょっとその時に自分の書きたかったものとは違う曲になってしまうし、おそらく自分にはそうした作り方で曲をまとめ上げる素養はないと思う。
そういう書き方がうまいと思うのは、さだまさしとブルース・スプリングスティーンかな?
歳をとったから言えるようになった事
この「複数の人物を一人として混ぜ合わせる」という方法をとっていった先に、「時系列を超えて知り合った人を混ぜ合わせる」ということもやるようになってきた。
少年時代から、友人などに言われてきたことやそんな人たちに向けてのアンサーなどを曲にする時に、中学生の頃の友人も、高校時代の友人も一人の「君」として、その「君」に向けて、当時の自分がなんと答えたらよかったのかわからなかった、うまく言えなかった事をこの歳になったらちゃんと返せるなと。
それは歌詞の内容だけではなくて、自分がそれを伝える時の気持ちの空気としての曲調も併せてなのだが、当時はきちんと理解してるとは言えなかった彼らがどういう気持ちでそんな事を言ってたのかを理解した上で伝えられるかなと思いながら書いたのが”夢なんてなくてもいい”だ。
その他、もうかれこれ20年くらいの付き合いになる知人の事を書いた曲でも、知り合った頃には言えなかったような事を書いてみたりできるようになったのは、自分が若くはなくなってよかったなと思えることのひとつだったりする。
歳を取ったついでに、もうひとついうと、その歳を取る過程でいろいろな曲の書き方を試してきたおかげで、今現在、純粋に特定の誰かの事を想定して曲を書いても、他の方に対してそうした説明なしに歌って(つまり、事実を紹介しなくても)、なにか表現したかった芯の部分は聴いている方に沿う形で伝えられる事ができるようになってきた気がする。
この時点で、ようやくそうした歌を書いた場合は、ご本人にはこっそり「コレ、アナタとあの時き話した事から書いたんだよ」とか「モデルは君だ」みたいな事を伝えたりして、密かに楽しんでいる。
そういう人にその曲を気に入ってもらったり、「泣きました」って感想をいただくと、普通に曲として受け取ってくれた方の手応えとはまた別な喜びを感じたりもできる楽しみが増えたなと思う。
誰かを歌うと手にする引き出し
さて、こうやって誰かをモデルにして曲作りをしていると、経験上、もう一つ面白い効果がある。
それは簡単にいうと「自分の引き出しが増える」という事だ。
先述したように、「何を表現したいのか?」に焦点を当てて曲を構成するようになったのもこうした曲がきっかけと思うのだが、その後も「誰かに関しての曲」を書く時に、かなりの頻度で、自分にとっての新しい言葉遣いとか、今までになかったメロディやリズムに対しての言葉の乗せ方ができたり、新鮮な曲調になる事が多い。
特に意図して新しい事をやろうと試しているわけではなく、結果的にそうなっているようだ。
これはおそらく、その人物というかそこでこちらが受け取る空気感が、人それぞれ違うから、その自分が感じた空気感に合致するものを探っていると、おのずとそれまでになかったパターンを増やすことになるんじゃなかろうかと考えてみた。
もちろん、これは作っている当人にしかわからない、体感的なものではあるし、聞いている方々にとってはどうでもいい話なのだが、こうした振り返りをする中で、そのことに気がついて、改めて人との関わりというのが自分を膨らませてくれるのだなと感じた次第。
そして、最後にもう一つヒミツを。
先ほど書いた、「いろんな誰か」を混ぜ合わせる時、その中の一人としてひょっこり自分自身を混ぜ込んでることもあるし、誰かをモデルにして書いても、その誰かの力を借りて表現として現れるのは結局は自分なんじゃないかという気がしているのです。実は(笑)。